2017年05月24日

みんな他人

そんな事を言いながらもふと思い出したことがある。

母がちょうど私くらいの歳の頃、
私が嫁に行き、弟にも嫁さんが来て、孫もそれぞれ出来た。
その頃の母は、
どうやら自分がひとりっ子で
兄弟が居ないことに随分と悲哀を感じていたようである。

そして母の友人がその娘さんと仲良く旅行したりしているのが
とても羨ましかったらしく、
恨み事を書いた長い手紙を娘の私に何度も寄こした。

自分がいかに親の言う事をよく聞いたか、
いかに自分の父親が素晴らしい人であったか、
自分がどれほど苦労したか、どれほどいい人で賢い人間であるか、
そして懐かない娘である私への恨みごとが書いてあった。

筆圧の強い便箋に書かれた何枚もの手紙を、
私は最後には読まずに捨てた。
そして、
「お母さんには仕事がありたくさんの友達がいて、
お嫁さんもいるやないの。
もう私のことは諦めて」
と電話口で言う私に母は
「みんな他人や!!」と金切り声をあげ、わ〜〜っと泣いたのである。

その時はあきれ果てため息をついただけだったけど、
今、少しだけその時の母の気持ちがわかる。

母はなんでも口に出す人で、外面は良く、
家で私と父に当たり散らす人だったけど、
そんな母を見て育った私は、家では無口に育ったけど
多分、中身は母と同じなんだろう。

そういうことを繰り返しながら、
ある時母は私をバッサリと切った。
ある日を境に父も切り、完全に弟一家にシフトした。

海外ではハワイが一番良かった、という母に
「いつか一緒に行こうよ」と何気なく言ったら
「あなたは友達が好きなんでしょう?
 友達と行けばいいじゃない!私は友達と行くわ」
とえらい剣幕で返され、
そこまで大人げない母に唖然としたものだ。

実際、何度も友人と海外旅行していたと知ったのは、
母が倒れてからだった。
父が倒れてから、再度またすり寄ってきた母に
もちろん、何を今さら、とうんざりしていたけど、
今、無い無い病に罹っているいる自分の中に母を見る。

あれほど嫌で似たくないと思っていた母と、
結局は私は同じ人間なのだろう。女王様の母は、
実際は不満で充満しつくした人であった。

自分がどれほどに嫌で出来そこないの人間であることか、と
今さらながらに気がついて茫然とする。

気をつけたい。
もう落ち込むのはやめにして、
また明日から頑張ろう。


posted by えるか at 23:28| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月09日

でんでんむしのかなしみ

先日長男夫婦に子どもが産まれた。一卵性の双子。
小さかったのでNICU(新生児の集中治療室)に入っています。
一気に孫が4人になった。全員女の子。
男の子しか育てたことのない私にはピンクピンクの別世界である。

「子どもが結婚しててええね」
「もう上がりやね」
「これで安泰やね」
私よりよほどいろんな物を持っている人たちに
そう言われてしまうと言葉をのみこんでしまう。

上がりや安泰などとという意識は全く無いので返す言葉はないが、
そう思わない自分はおかしいのか、、と思ったりする。

むしろ小さなでんでんむしの殻を背負って生まれてきた孫や
でんでんむしの殻を背負っている息子たちやお嫁さんたちに
幸多かれと願うのみである。

『でんでんむしのかなしみ』新美南吉

 でんでん虫はある日、自分の背中の殻に、
 悲しみが一杯つまっていることに気付く。
 もう生きていけないと思い、
 友達のでんでん虫のところに行って自分の背負っている不幸を話すと、
 「それはあなただけではない、私の背中の殻にも、悲しみは一杯つまっている」
 と言われる。

 どの友達からも返って来る答は同じだった。
 でんでん虫は、「悲しみは誰でも持っている」と気付き
 悲しみをこらえていかなければならないと思ったのだった。

この話は美智子皇后がインドのニューデリーでの
国際児童図書評議会・基調講演で紹介された、
子どものための本の1つであったが、
皇后陛下の苦難の道のりを思うとえらく心に残る話で、
1998年、当時ニュースでもさかんに放映された。

以来、
私にも人の背に哀しみの殻がみえるような気がすることがある。
またそう思う事で、
必要以上に悲嘆にくれることも無いような気もするようになった。

私はこれからも一人で生きていくことになんら変わりはないけれど、
一家離散のようになり幾度となく正月やお盆を一人で迎えた事を思うと、
家族で迎えるのが当たり前である人々に比べ、
その有り難さがいかほどのものか私はよく知っている。

ちっとも順調に生きてこなかったので、
子どもが親になり紡いでいくことを有り難いことと思う。
幾多の困難が降りかかろうとも生きていってほしいと思う。




posted by えるか at 20:02| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月27日

ジュゴン

長男がまだおむつをしていた頃、
親子3人で鳥羽水族館に行った。

そこには当時珍しかったジュゴンがいた。
そしてそのジュゴンの名前は夫と同じ名前だった。

「ぎゃははは!!同じ名前だよ。そっくりだ〜!」
と大笑いする私のそばで夫は憮然としていた。

入社するまでの夫はたいそうな男前で大変もてたそうだ。
その事はまわりや姑の話だけでなく同級生だった私の従兄弟や、
部活で後輩だった私の級友からも同じ話を聞いたので事実であったらしい。

しかし私が会った時の夫は体重が20キロも増えており
全くの別人であった。

ダイエット商品の使用前使用後の悪い例のようで、
学生時代の写真を見せられても過去の栄光としかうつらず、
人間太ったら終わりだと私に思いしらせただけだった。

同じ名前のジュゴンはしばらくして死亡記事が出た。
「ジュゴンが死んだらしいよ」
という私の言葉にその時も夫は無言だった。

それからの20年間も夫の体重は増え続け、
結局は30キロ近く太った。



病床の人となった夫は痩せた。
20キロ痩せその後も痩せていった。

やがてベッドに臥す夫は見た事もない男前に変身した。
「どうですかっ?!○○子さん!
 (私の息子はハンサムでしょう!?)」

事の重大さはさておき姑は得意そうだったし、
私も刻々と進みゆく現実に朦朧と頷いた。

先日テレビでジュゴンの特集をやっていたので
(ジュゴンといえば、、、、、)
と過去がよみがえったのだ。

結婚生活のなかで夫はずっと太った人だった。
しかしどういうわけか思いだす夫の顔は亡くなる前のきれいな顔だ。

私はとうに夫の歳を追い越し、私の中の夫はとても若い。

posted by えるか at 00:17| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月08日

おばあさん

年に数回しか会わない孫は、
たぶん私が誰かわかっていないだろう。

前回会った時は私を見て、
瞬間怯えていたので少々傷ついた。
我が家に猫がいる事はちゃんと覚えていて
部屋に入ると早速猫を探している。

いつ「おばあちゃん」と言ってくれるのか
心待ちにしていたのだが前回はかなわなかった。

今回ついに私を呼んだ言葉は
なぜか「おばあさん」だった。
「おばあちゃん」でなく「おばあさん」なのである。

まだ2歳とちょっとなので幼い発音が可愛らしい。
「ちゃん」でなく「さん」が意外に面白いのでそのまま呼んで貰うことに。

しかしふと気がついたのだが、
どうやら祖母としての「おばあさん」ではなく
名字としての「おばあさん」なのではないか。

「田中さん」みたいに「おばあ」は名字として「〜さん」
と呼ばれている可能性が大である。
息子夫婦に話すと爆笑していたが当たってるみたい。

「おばあさんも〜(一緒に行こう)」
とかわいい言葉を残して帰っていった。


posted by えるか at 00:16| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月09日

あたしンち

マンガ『あたしンち』 けらえいこ著
私の愛読書であります。
飽きることなく処分せずに、
一巻から揃っている数少ない漫画です。

主人公みかんは高校生、弟ゆずひこは中学生、
そのお母さんとお父さんや同級生のほのぼの漫画。

このお母さんは頭はちりちりのパーマ、ほぼ2頭身で、
料理下手な上、理不尽な要求を子どもたちにする。
にもかかわらず子どもたちもグレることもなく、
ほのぼのと明るい学校生活を送る。

このお母さんは私の憧れだ。
こんなお母さんになりたかった。
小市民でちょっとずれてる。
太ってるけど毎日が平和で楽しそう。
憎めない愛すべきお母さん。

あまりにも自分とかけ離れているものは受け付けないのだけれど、
どういうわけかこの漫画だけは手放せず、
たまに読み返してほのぼののおすそ分けをもらう。

息子は「こんなお母さんだったら家出する」
なんて言ってたけど、そんな事なんのその。

飽くなき憧れ『あたしンち』のお母さん。
posted by えるか at 00:05| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月04日

祖父の手

私が幼児だった頃、
田舎の祖父は自分の手の甲の皮膚を指でつまんで言った。

「そうら面白いやろう。
 おじいちゃんの手はこんなん出来るんやで」

たるんだ皮膚で出来た皺の山はいつまでも形を留め、
祖父がまた違う場所をつまむとそれは引っ張られ姿を消し、
また新たな山を作った。

「ほれ、こっちにも。
 こっちをつまんだら、、、
 ほれ、このとおり」

「うわあ、すごい!
 おじいちゃん、何でこんなん出来るん?」

私の手の甲はいくらつまんでも瞬時に元に戻ってしまう。
幼児の皮膚はつまむことすら難しいほど瑞々しい。

私は何度も祖父の手の甲を繰り返しつまみ、
山が次々と出現しいつまでも消えない事を不思議がった。

「なんで私の手は出来へんの?
 おじいちゃんの手は魔法みたいやなあ」
 
「おじいちゃんはなあ、もう歳を取ったんや。
 だんだん体がしなびて小ちょうなるからこうなるんやで」

祖父にも若い時があったということを、
幼い私はまだわからなかった。
目の前の祖父は老人でしかなかったのだ。

あのときの祖父は何歳だったのだろう。
もう退職はしていたけれどまだまだ元気だった。

このあいだ待ち合わせに少し時間があり、
ふと自分の手に目がいった。

少しずつ手にも年齢が現れてきている。
さすったら甲の皮がやけに伸びて、
しわしわと引っぱられたくさんの皺の波を作った。
指でつまむと山はかろうじてすぐ元に戻った。

posted by えるか at 11:38| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月10日

大ごと

横浜に帰ったはずの二男から電話。
「財布忘れてない?」

車のルーフに財布を置いたまま
走ったらしいです。

その辺に落ちてないか、
炎天下を探させられました。

落ちてる訳ないやろ!
posted by えるか at 23:19| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月12日

息子の運転

二男が中古車を買った。

マンションまで迎えに来てもらい、
長男宅に寄り、
初めて二男の運転で墓参りに行った。

万感胸にこみ上げるものがあります。

posted by えるか at 22:25| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月17日

ワタクシ何が怖いって、ゴキブリです。
この世で一番怖いと言っても、
過言ではございません!

子どもの頃、実家にはゴキブリがいた。
夜中に水を飲みに降りていくと、
炊事場にはゴキブリが絶対いた。

子どもの頃は嫌いだったけれど、
怖いとまではいかなくて、
新聞紙を丸めて追いかけていた私である。

ある日アースをかけられたゴキブリは
最後の力をふりしぼって反撃してきた。

、、ぶ〜〜〜〜ん、、、
、、、、飛んだ、、、、、

私はその時までゴキブリが飛ぶことを
知らなかったのだ。
あまりにもびっくりして声も出なかった。

ヤツは台所を旋回して
私に狙いを定め向かってきた。

、、ぶ〜〜〜、、、ん、、ハタッ、、。

そして私の胸にビタッととまった。

ヤツは汚い翅の下にあるもう一枚の薄い翅を震わせ、
まだ私を狙っていた。

次は首か顔を狙っているのだ、
と気配でわかる。

「ぎゃ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」

小学6年の事である。
以来ワタクシはゴキブリが怖い。
しかし時代と共にゴキと共存することは無くなっていたのだった。
アリガタヤ、ありがたや。

先日古紙回収に出そうとベランダの段ボールを小脇に抱えた時、
何やら黒いものが、ササ、、、、と動いた、
、、ような気がした。

いや、見なかった、、そんなものは無かった、、、
気のせいだ、なかったことにしよう、、

私はハナちゃんがベランダに出ていようが何であろうが、
網戸をピッチリ閉めることにした。

次の日、長男が来てご飯を食べている時だ。
「あ、ゴキブリちゃうん!」

長男の目線は私の後ろの壁、
つまり家の中。
奴は実在していたのだ。
しかも断りもなく部屋の中に入ってきている。

「ギャ〜〜〜〜〜ッ!!」

という私の金切り声が響き渡ったのは言うまでもない。
ハナは私の声に驚いて背中が逆立っていた。

そこに次男が帰ってきて、
息子たちはゴキ退治をしてくれた。

いや息子を産んでおいてよかった。
本当に感謝感謝、
大きくなったねえ、あんたたち。
たまに優しくされるとものすごく嬉しい。

翌日、実家のご機嫌伺いに行く。
歳が行けば行くほど実家を変な人たちと思う。

今は白いを物を赤いと言い放つ母が牛耳っているが、
母に何かあった時、
おとなしく母に従っている父や弟(and嫁はん)はどうするのだろう。
采配をふれる人たちとは思えないが。
長男信仰を地で行く母と弟のお手並み拝見といくか。

しかし絶対私の方が普通っぽい、
と、一人ごちるワタクシ。

弟は私より年下というのに、
ステテコのようなものを着ている。
「あんた、それまさか普段もそうじゃないよね」
というと普段からそうらしい。
「だって涼しいもん」
横から母が
「だってもうオジサンやん!」

そういうと何年か前にこの母から私は
オバサン呼ばわりされ、
息子にさえ言われたことのない私は
ますます母を許せんと思ったのであった。
夫を亡くした娘にかける言葉は他にあるだろう。

父と弟はいつのまにか一卵性のように
そっくりになってしまい私はぞっとした。

弟はさえない見てくれであるが
父は若い頃はいい男だったのだ。
それがある時を境に父親の顔が変わり、
息子そっくりになった。

「人は暮らしているように、そういう顔になっていく」

次男が帰り道、ぽつりと言った。
おお、知らんあいだにいい事をいうようになっているやん。

もし私が一度も家を離れることなく結婚し、
そしてずっと生まれた土地に暮らし、
母と同じ価値観でそのまま暮らしていたとしたら、

今の私とどれくらい違う顔であったろうか、
どんな雰囲気の人間であったろうか。

案外いい人で、
幸せであったかもしれぬ。

なんてことは、
絶対思わん!。







posted by えるか at 22:48| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月24日

よじれたリボン

猫さんが死んだことを知った幾人かの人たちから
声をかけてもらった。

「可哀想だった、、、、」

そう声に出して泣けるということは
幸せなことだ。

夫が亡くなった時、
事情を知る友人たちは
一様に沈黙した。

誰も、一言も、何も言わなかった。

私も一言も発することは出来なかった。

息子たちも何も言わなかった。

今だに、私と息子たちは
夫のことを口にすることはない。

誰もが、言ってはならない事でもあるかのように、
押し黙っている。

誰もが深く傷つき、

言葉を発することなく
生きてきた。

夫や父親が亡くなった時、
世間の人が辿る再生の道を
私たちは見つけられず

闇を彷徨った。



猫さんが死んだ時、
私は思いきり泣き、
哀しんだ。

人に声をかけて慰めてもらったり
泣いたりできることは、

まっとうで、
幸せで、有難く、
そして、
楽なことなんだ、と、
初めてわかった。

普段は、何か用があってこちらからメールしても
返事もよこさない息子たちが

やたらと家に来たり、
連絡をよこす。

そんなに心配されるほど、
私は猫に依存しているように見えていたのかと、
ちょっと情けなくなってしまうほどだ。

たしかに、猫を自分の分身のように
感じていた頃もあったが、
もう今は、猫は猫として、
かわいがっていた。

息子たちがこんなに気を遣ってくれるとは、
正直、思っていなかった。

私たちは、初めて
死んだ者(猫)の話を、
二言三言一緒に話す、
ということをした。

夫が亡くなってからの五年間という歳月で、
私たちは、それぞれが沈黙しながらも、
少しずつ、お互いに変わっていったのだ。

今年の盆、
「花火を見たい」という私に、
息子二人は、私に付き合って、
一緒に歩いて近所の花火を見に行ってくれた。

小さな子どもの頃から、
車でスーパーに一緒に買い物にいくのも
嫌だった息子たちが、
私と花火に行きたい、なんてはずはなく、
一人の私を気遣って、
ついて来たのだ。

嫌なんだけど、
文句は言わず、
仕方なく付いてきた。

(気遣われるようになったんだ、、、)

そのことが、うれしくもあり、
また、年老いた気がする。

我が家の、
凄まじい歴史を知る猫さんの死は、

捻じれに捻じれて
大きく横道に逸れた私たちの道を
また、近くに寄せてくれた。

私たちは、
ゆっくりと再生に向かう。


posted by えるか at 20:39| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月10日

時々、母のことを書いているので、
ちょっと母の名誉のために書いておきたい。

まあ、確かに私は母とは
価値観も考え方も全く合わないし、
母という呪縛から逃れるために、
それはつらい思いをしてきた。

しかし、母は友人も多く社交家だ。

小中高大の同窓会や遊びに忙しく、
教室も繁盛し、生徒さんは県外からもくるし、
毎日のように、新幹線で飛び回る。
まあ、73歳にしたらちょっと考えられないような人である。

私の友達のお母さんたちは、皆、家で老人になっている。
弟などは、どうやら尊敬しているらしく
近年とても仲良しみたい。

同じ姉弟でどうしてこんなに違うのか、とは思うけど、
弟は、私が防波堤だったので随分自由にやっていたことと
母特有の「長男意識、家意識」の恩恵を受け、
うまくやっているのだろう。

実家の中では私だけが「変人」扱いだ。
私に言わせると、私の方がまともなのだ、と思うのだけれど
多勢に無勢なので、黙っておくしかない。
人は変わらない。

それでも、母も父も悪い人たちではない。
世間知らずで、お人よしだ。

びっくりするような意地悪な人がいる。
あまりまわりにそういう人が居ないので、
そういう意地の悪さに遭遇すると
びっくりするし、傷つくし、落ち込む。

しかし、私の両親は
人に意地悪をしたり、人を陥れようと画策したり、
ひねくれたり、いじましかったり、
そういうところは全く無い。

親がそういう人であったことは
有難いことであったと思う。

posted by えるか at 11:28| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月06日

西日

次男にお中元がきた
ビールだった。

驚いた。
あの次男に、、、、、、

自分の息子にお中元がくる。
ちょっと感無量だ。
あの子が、
人様からお中元を貰えるようになったなんて、、、、

まだ私と住んでいることになっているので、
こちらに送られて来たのだ。

次男に話すと、ビールを私にくれると言う。

ひょっとして、多額の借金の形なのか、、、と
それは、あんまりだ、とは思ったけれど、
黙って、有り難く頂いた。

私は、
これをビール好きだった夫の墓前に持って行こう、
と思った。

夫の墓はここからは距離にして片道100キロ離れた
町からは随分と奥まった田舎の山あいにある。
便利な市の中心地はもう満杯で、
墓地は外へ外へと拡がっていく。

代々続いた山中の墓を一つにまとめ、
そこへ移転させた年に夫は亡くなり、
自分のたてた墓に自身が入った。

墓石には、建立者として姑と夫の名前が彫られ、
その同じ年に亡くなった墓碑に夫の名前がある。

この墓を建てた時の夫の心中は、いかばかりであったか、
と思うけれども、
当時、もはや蚊屋の外だった私は、
墓の場所も知らず、
その儀式には長男のみが私の知らないところで参加した。

夫の死後、
私と息子二人は、長男の記憶だけをたよりに
墓を探しに行ったのだ。

これだけでも、
夫の死の前後にどのような事があったか、
世間一般とはかけ離れていたかは
少しは想像できると思う。

こういう、記憶から消し去ってしまいたいような
つらい出来事を、私は三年ほど前に書いたことがある。

大阪文学学校という、文章を書く学校に入学したのは、
まあ、することが何も無かったからだ。

特に何が書きたい、記録したい、とか小説家になりたい、とか
そういうまっとうな理由があったわけではない。


そこで、私は
忘れ去りたかった記憶を掘り起こす羽目になった。

自己紹介で、何も言いたいことのなかった私は
(なにしろ、そのころの私は生きる屍のようであったのだ)
しらけた空気に耐えかねて、つい「夫が亡くなって」と
口走ってしまった。

チューターから私に出された課題は、
「夫を看病していた、ある一日を書く」
だった。

自分でさえ忘れたいのに、
人になど何も言いたくない。
随分、歯切れの悪い文章を書いたと思う。

皮肉なことに、「連作をするように」と言われ、
私は全部で三つの作品を書いた。

チューターや、世間一般の人が想像するような、
お涙頂戴の人生なんか、歩んでないぞ、
と、私は思いきった文章を書いた。

それは、
腸を抉り出すような作業で、
私は鬼気迫る顔で、
憑きものがついたようになって書いた。
あまりにもつらくて、気が狂いそうだった。

その作品は、内容があまりにもセンセーショナルだったため、
文章は稚拙ながら、その年の学校賞の候補になった。

しかし、それを読んだ人から
「可哀想な人、これからは幸せになってね」
みたいな優しい言葉をかけられるのは
ちょっと違う、と思ったこともあって、

四部作の最後一部を残したまま、
私は、恋愛小説やユーモアエッセイに転向した。

学校は一年半で辞めてしまい、ついに
最後の作品は書くことなく終わってしまったが、
題名もプロットも決まっていて、
それを、書いたら、
小さな一区切りはつく、と思っている。

書き残した作品の題名は『西日』

息子たちと夫の墓を探しにいった時のことを
書きたいと思う。
いつか書くと思う。

私が文学学校に通っていたことは息子たちは知らず
(私には何の興味もなかったはずだ)
学校のクラスの人以外に私の作品を読んだ人は居ない。

全くの、見ず知らずの級友であったからこそ、
そして、ペンネームであったからこそ、
義務ではあったが、人に読んでもらえた。

人様に知らしめたいものなど、
私には何もない。

でも、いつか私が呆けた婆さんになったり、
死んだりしたら、
息子に読んで欲しいと思う。
私が、あの頃、どんなことを考え、
感じていたのか、いつか知って欲しい。

そのためにも、最後の章はいつか書いておきたいと思う。

二作目の『猫を見に』という作品は、
別に暮らす長男が、猫を飼い始めたと知り、
その猫を見に行く話で、
これは、
作文に毛のはえたような下手な文章なのだけれど
私自身はこれがとても好きで、
長男と折り合えるように、
書きながら自分で気づいていった作品だ。

書くことによって気づいたり、
納得していくことは多い。

私にとって、これを超える作品は
もう書けないような気がする。



夫の墓前に一人で来たのは初めてだ。
真夏のカンカン照りの墓地には人っ子一人いなかった。
墓石の照り返しが眩しく、目がショボショボする。

墓地につきもののカラスも、
あまりの暑さに姿が見えない。
代わりに、鶯が上手に鳴いていた。

ほう、ほけきょ、、、、という声は
無神経なほど、涼やかで、能天気で、
幸せそうだった。

「聡史がもらったビールだよ。
あなたの息子たちはがんばっているよ」

墓石に柄杓で水をかける。

真夏の焼けついた乾ききった砂利は
水を、あっというまに吸い込んでいく。
かけてもかけても、限りないような気がした。

墓前に置いた缶のプルトップを開けると、
それは、ちょこんとかわいらしく座り、
私はそれをそのままにして、そこを後にした。

帰り道、運転していると、
ふと、いろんなことが、
わあぁっと頭の中に集まってきて、

それでも、やっぱり夫は、私にとっても
五拍子も六拍子も揃った、たいした男だったのだ、
と思うと、
そういう人が、もうこの世には存在しないことは、
紛れもない事実であるのだ、とわかり、

夫が可哀想になり、
センターラインが、ぼやけた。

人は、赦すことで、また自分も赦されていくのだ、、、、

そういう事が、少し分かるようになった。
posted by えるか at 23:27| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月16日

天地真理

久々にやってきた二男に、

「兄ちゃんが『顔ちぇき』
(携帯で自分の顔を撮影して送ると
 芸能人の誰に似ているか鑑定してくれる携帯サイト)で
『福山雅治』と出たらしいよ」

と教えたら、
「うわぁっっはっはっはっはっはっは!」
と大笑いするか、と思いきや、

二男は平然と、
「そりゃ、そうやろ。
 俺もしょっちゅう言われるもん。
 兄ちゃんの方が俺より福山に似てるわ」
と答えた。

そして
「やっぱ、兄弟やなあ、、、、」
と言う。

「、、、、え、、、そうなん?、、」
(どこが似ているんだろう、、、、)

「俺、『ガリレオ』の頃、ずっと言われてたで」

「あ、そうやったん、、、、、どこが、、?」
「目元とか、、」
(ほんまかいな、、、)

「俺、マッチにも似てるって言われたねん、
 やっぱ、血つながってるんやなあ、、って思ったわ」
(亡き夫はマッチに似ていると言われたことがあるのだ)
「、、、、、、、、、」
(2人ともマッチには似ていない、と私は思う)

「兄ちゃんなあ、、、子どもの頃の顔やったら
 福山そっくりなんやけどなあ、、、、、」
(ほんまかいな、、、)

私としては、二男はV6の森田剛にそっくりだと思っていた
(電車の中でひそひそ言われていたらしい)のだが、
どうやら私の知らないうちに昇格していたようだ。

「いや、あんたは、竹下登元首相の孫で
アホキャラで売っているDAIGOにそっくりやで」
(実は最近、内心、似ているなあ、と思っていたのだ)
「え〜〜、俺イヤやわ」
「ええやん、一応イケメンチームに入れてもらってたよ」

まあ、息子が「福山雅治に似ている」
と言われて、親として悪い気はしないけど、
いくらなんでも、ちょっと言い過ぎでは、、、

でも、ハンサムな芸能人に似ていると言われて
幸せな気持ちになるのはよくわかるので
「よかったなあ〜」
と言っておいた。

誰でもそうだろうけど
私もよく芸能人に似ていると言われたものだ。
(最近、全然言われないのは、なぜ?)
で、もちろん、誰に似ていると言われたか、
なんてことは
口が裂けても言えない。
皆さん、とてもお美しい。

自分でも、そんなことお世辞だとわかっているし、
似ている、と、言ってくれた人も
そっくりだ、と思っているはずはない。
ほんの、少し、どこかが、なんとなく似ていると、
そう言ってくれるのだ。

でも、私はわりとお目出度いところがあって、
そういうことを何十年(!)も覚えていて、
時々思い出して、にんまりする。
ちょっとでも褒められると
いつまでも覚えていて自己称賛。
(誰にも迷惑かけないし、ちいさな幸せは大切にしないとね)

でも一人だけ、口に出しても、
(アホちゃうか)と思われない人がいる。

天地真理。

中学生の頃、似ていると言われた時は、
彼女はトップアイドルだったけど、
私は彼女が嫌いだったので、
嬉しくなかった。
歌は下手だし、野暮くさいし、、、。

彼女が何十年もたって、
再びテレビ画面に現れた時の驚きは、
私だけではなかったはずだ。

あんまりだと思った。
バラエティ番組で、
笑いものにされている彼女を見るのはつらかった。
ほんとうに芸能界というところは、
視聴率さえ上がれば、吸血鬼のように吸いつくのだな、
と思った。

彼女は、なぜ、あのような姿で、
出てきたのだろう。
うまいこと言われて、引きずり出されたのか、
わかっていて、計算ずくで出てきたのか、
それとも、ほんとうのお馬鹿さんなのか。

彼女の本当のところは、私にはわからないけれど、
「精神的に脆い人なのだ」
ということは感じる。
誰も親身になって助言してくれる人がおらず、
孤独だったのだろう。
その孤独さは私にはよくわかる。

自分の人生に対して、
彼女はただただ、愚かなだけだったのだろうか。
そうじゃないことを祈りたい。

脆い、愚かなところが
私自身にもあることを
私はよくわかっている。
彼女の中の、そういう危ういものと同じものを、
私も自分の中に確実に持っていると思う。

でも、最終的には、
彼女には、しぶとく、賢く生き抜いてほしいものだ、
と思う。
私も、どんなに打ちひしがれようと、
それでも、最後のところでは、
ちゃんと立っていたいと思う。
posted by えるか at 00:35| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月05日

ただ存在する

みごとに連休に予定が無い。
そんなわけで毎日更新している私です。

息子2人からも何の連絡もなく、
着信履歴があった長男に電話したら
なんと東京に遊びに行っていた。
二男の方は全くの音沙汰もない。
借金の返済をすると言った4月をとうに過ぎ、
こっちから電話するのは、まるで催促のようだから
しない。

最も、連休に来ないからといって
そんなこと、
ずっと前から世間の規範からはずれてしまった
我が家にとっては当たり前のことだ。
盆正月に家に居るなんてことは
彼らの常識にはない。
私も誘わない。
寂しいけどね。

来たからと言っても、
自分たちが育った懐かしい思い出のある家ではなく
このような箱のような部屋なのだから
来いとも言えない。
楽しく過ごしてくれていればいいと思う。

生まれた子どもが、二人とも男の子であった私は
自分は姑になるしかない身の上なのであると
初めからあきらめていた。

思えば、子どもが生まれた頃から
「子どもが大きくなれば、嫁さんのものになってしまい、
私は、いつか独りになるのだ」
と自分に言い聞かせて、生きてきた。

同じように男の子二人しかいない人が、
「私は絶対、息子が結婚しても、
近所に住まわせて、一緒にいるわよ」
と言っていたけれど、今でもそう思っているのか、
それとも、そう思っていればそうなっていくのか、
ちょっと知ってみたい気がする。

人間、願えば、叶う、というもんね。
まあ、私は自分の姑に対する気持ちを思うと
とてもそんなこと思えませんでした。
その人も自分の姑のことは、ボロクソに言っていた。
明日は我が身、とは思わなかったのだろうか。

私には、同じように夫が亡くなって
未亡人になってしまった友人が四人いる。
皆、私と似たような歳だ。

そのうち二人が、自身も亡くなってしまった。
どちらも癌だ。

そのうちの一人は、
とても温厚な賢い人で、
決して、私のように本音を言ってしまって
失敗したりしない人だった。

ある日、ばったり会って長時間立ち話をした。
その時、彼女が、
「私たちの気持ちなんて、誰にもわかりませんよねえ。
皆なんだかだ言っても、家に帰れば旦那さんが居るじゃありませんか」
と言ったのだ。
そのようなホントのことを、絶対に言わない人だったので
私は大いに驚き、嬉しくなった。

真っ正直で誠実なその人は
私のこともずいぶんと気にかけてくれ
(未亡人としては彼女の方が先輩だ)
色々とお世話になった。
同じ未亡人といっても
彼女は金銭的には何の不安も無い、
そして仕事もちゃんとした仕事につける資格を持っている人だったので
私は
(夫が亡くなったことは一緒でも、ずいぶんと違うもんだなあ)
とうらやましく思ったものだ。

その彼女のお葬式は彼女の人柄を反映して
たいへん大きなものだった。
あとには小学生をはじめ、未婚の子どもが三人残された。

もう一人の友人も
たいへん心のきれいな人で、私は彼女にも
よく助けられた。 
住んでいるところがお互いに遠かったので
あまり会うことはなかったけれど、
その彼女の訃報を聞いた時は、
お疲れ様でした、、、としか心の中で言えなかった。
彼女は十年以上、病いと闘ったのだ。

あとには、未婚の男の子、三人が残された。
同じマンションに住んでいたことがあり、
亡くなった旦那さんも子どもたちも私は知っている。

私は、残された子どもたちを想う。

彼らは両親ともを、亡くしてしまったのだ。
その喪失感は、私には想像もつかない。

私の息子たちは、父親を亡くしたけれども、
その息子の気持ちを、
いまだ両親が健在の私が、ちゃんとわかっているとは、
そんなこと、とても言えない。
私が息子の年だったとき、
自分の親が亡くなろうなんて、想像だにしたことがなかった。
息子たちはどんな気持ちで今日まで来たのだろうか、と
推し量ったりはするけれども、
そんなことは彼らに対して不遜である、と思う。
彼らの気持ちは、彼らだけのものだ。

私は彼女が亡くなった時、
「私は、息子のために生きていよう」
そう思った。

私が息子のためにしてやれることは、何も無い。

金銭的な援助もしてやれない、
かまってやれるタイプの親でもない。
生き方を教えてもやれない。
冗談を言い合って笑いあえるような間柄でもない。
息子にしたら、なんか変な親、だと思う。

私自身は、出来る事なら死んでしまいたい、
と思うことはままあることだ。
ただ、今死んでしまうのは、
あんまりにも自分が可哀想なのと
後始末を思うと息子が気の毒で死ねない。

友人二人が亡くなって、私は思った。

「母親というものが存在している」

そのことだけのために
生きようと思った。

何もしてやれないけれど、
彼らが家庭を持ち、家族が出来るまでは
息子のために、私は生きている。
posted by えるか at 18:30| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月18日

かお

二男が2か月会わないうちに
えらく、いい男になっていた。

この二男はもともとは私にそっくりで、
長男が、父親に似て貴公子のよう、
と言われていたのに対し、
「庶民的な顔やねえ、、、、」
と言われていたのだ。

小学生のころはバレンタインデーに
長男がチョコをもらいまくっていたのに対し、
二男は
「兄ちゃんばっかり、、、、」
と泣いていたので、
私は隣の人にたのんでチョコを
やってもらっていたりしたくらいである。

ところが努力というのは、人を変えるのだ。

まったくお洒落に対して頓着ない長男に対し、
お洒落な二男は、
今では長男よりずっとカッコイイ。

長男が父親に似て、太る体質を受け継いだのに対し
二男は筋肉質は父親に、体形は母親に、
とずいぶんと得をして
今では、会うたびに、
(もう少しなんとかならんか、、)と
心配しなければならない長男と、立場が逆転している。

ところが、この二男、中学一年まではかわいい顔だったのに
反抗期に入ると、もうやくざのような目つきになってしまって、
私は
「そっくり!」
と言われるたびに、
(あんな顔と似てへんわ!)
と大変、不満だった。

それが、どうしたことか、この2か月でもとの顔に戻っているのだ。

「顔つき変わったね、、、、、」
というと、
「どんな風に?」
「昔に戻ってる、、、なんか、おだやかになったよ」
「、、、、、最近、ちょっと落ち着いたからな、、」
「うん、いい顔になったよ」

と褒めておいた。

一年前まで一緒に住んでいた頃は、
ほとんど家に居なかったし
いる時はずっと寝ていた二男は、
今でもたまに来ても、ずっと寝ている。
よほど疲れているのだろうか。
帰り際に「寝てばっかりやった、、、、」
と言って帰っていく。
それでも、来たときは
「ただいま」
と言ってくれることは嬉しい。
「こんにちは」では悲しい。

二男の顔が柔和になったのは
今の二男がきっと幸せだからだ。
私は二男のまわりの人にありがとうと言いたい。

顔には人の心が表れる、と私は思っている。
心は顔に出る。

美醜ではない。
どんなきれいな顔でも醜い顔はある。
狡さや、せせこましさ、そういうものは
隠していたとしても、
ふとした時に必ず顔に表れる。

だから私は外見で判断する。
金がかかっているとか、いないとか、
そういう問題でなく、
それを選んでいる、その人、その判断を見る。
立ち居振る舞い、そういうものは
上品とか下品とか
そういうことに関係なく、その人の質がでると思う。

私自身も、そういうところで、
もっとちゃんとしないといけないなあ、、、
と思う。
だらしない人間はだらしなく、ずるい人間はずるく、
そういう雰囲気が出来てくる。
感じることができる人には感じるのだ。
そういうお互いのものが呼応したとき、
人は縁ができる。
どういう人と縁を作るかは人それぞれで違うだろう。





posted by えるか at 15:53| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月29日

今日は今から実家に行かなければならない。
高速を使って1時間半もかかるから、夕食に間に合うように
行くためにはもう出なくてはいけないのだけれど
こうやってブログを書こうといている私。

世の中の例に洩れて、私は母が苦手だ。
はっきり言えば嫌いだ。
世界中で一番嫌い、、、、
こんなこと言うと誤解されるから普段はいわないけど
私のすべての苦しみは、母を発端としている。
すべての問題を紐解いていくと母にぶちあたる。

でも、自分のことを母のせいにするのは
卑怯である、と、それは、もうずっと前にわかっているので
ここでは、そんなことは言わない。

私に出来る解決策は、出来るだけ母から遠ざかっていることだ。
何年か前、
「ブラックメールを受け取るな」
という本に出会ってやっと腑におちた。
下手な分析をしたり、自分のせいにして苦しんだり、
そんなことはもうすることはない、と気がついて、
私はたいそう楽になったのだ。

それでも親子であるから、最低限の付き合いはしなければならない。
今日は逆単身で大阪にいた弟が東京に転勤になったので
「最後だから来るように」とお呼びがかかった。
母には会いたくないが、一人でがんばってきた弟はねぎらってやりたい。

母は「裸の王様」だ。
田舎の旧家のひとり娘で、
子どものころは、答辞送辞は母がいつもやったらしい。
長い間、教師だった。
今は転身して趣味の教室を開き、たいそうな盛況だ。
娘の私から見ても、腕がいい。
他の教室の先生を大きく引き離し、だんとつに趣味がいい。
遠く他府県から教室に通っている人もいる。
毎日、パーティだ、展示会だ、友人との旅行だと
父親をほったらかして飛び回っている。
彼女が持っていないものは
自分になつく娘だけなのだ。

痩せてはいるが骨太で健康な人だ。
だから、たまに背中を捻ったりすると大騒ぎで
私にまで電話してくる。
私は虚弱な体質で、その上、首も腰も膝の強くない。
めまいが続いた時もいつも一人で病院にいった。
人に言っても治るわけではないのだ。
母から電話がくると、行かないとあとが恐ろしいので
とりあえずは行く。
無理をして行って、お陰で自分の首が悪化したことがある。
昨秋、駅の階段でころんで靭帯を伸ばした母は
大騒ぎだった。
とりあえずは、お見舞いにいったけど、
私は
(この程度のことで、、、、、)
と内心思った。
私なんかもっとすごいことを、ずっと一人で耐えてきたのだ。

今日も、
「わたし風邪をひいて昨日医者に行ったよ」
と言っても反応なくひたすら父親の悪口を言っている。
言葉に窮して黙っていると
「聞いてるの!」
と怒る。

母は我が家が大変な時、何年も電話一本かけてこなかった。
それなのに私の夫の葬式の時には突然現れ
あげく、自分の教室の生徒に礼状を書くように言いつけた。

まあ、こんなことはどうでもいいことだけど、
父が弱ったあとの母の弟への
乗り換えの早かったことに私は驚愕した。
いつの間にか弟にびっちりと張り付き
昔、出来の良い(良かったのだ)私と比べて
弟をボロクソに言っていたことなど忘れているのだろう。
祖母(母の母)としばらく同居していた時は
祖母がかわいそうになるくらい毎日ガミガミ怒っていた。
それなのに祖母が急死すると、
とたんに祖母を神様のように崇め奉った。
そんなことなら、もっと優しくしてあげたらよかったのに、
と思ったけど、母親を亡くして哀しむ人間にそんなことは
言えない。
たぶん、父が亡くなったら、同じように
手のひらを返したように父を礼賛するのだろう。
自分がそのことに気がついてないことと、
誰も母を怖がって言わないことに問題があるのだが、
散々、母とぶつかりいやな思いをしてきた私は
もう関わらないことに決めたのだ。

そんな母が最近、私に
自分の介護を当然私がするもの、
と決めて罹っているようなことをちらつかせる。
恐ろしいことだ。
「こんな人みたいにだけはなりたくない」
と子どものころから育った私だ。
結婚したら、あんたはもう他人だと母に身を呈された私だ。
いまさら、何を、言っているのだろうか、、、、
母のお気に入りの嫁さんはずっと横浜だ。
弟も関西を離れる。

いやな予感がする、、、、、
実家から離れたところに私の住まいがあることが救いだ。
今のところは、、、、

posted by えるか at 17:20| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月24日

ここではない何処か

ゆうべから長男が来ている。
講習会に行くのに、ここからの方が会場に近いからだ。

滅多に来ない息子がくると嬉しい。
いつもの雑穀米をやめて、白米を4合仕掛ける。
5合炊きの炊飯器が珍しく役目らしい役目を果たす合数だ。

大量の野菜を刻んで肉を炒めて
久々に一般家庭みたいなことをする。
いつものように、有り余る時間を、なんとか
忙しいように運ぶことを考えなくても
ほんとにやることがいっぱいある。

私と同世代の主婦が当たり前にしていることを
しなくなって一年近い。
する必要がなくなってしまった時は
その余った時間をどう他のことに振り替えていくか、
それを考えるために右往左往した。
そして、どうにかこうにか一人暮らしに慣れつつある。

ところが長男がポツリと
「俺、ここから通おうかなあ、、近いしなあ、、、」

とっさに言葉が出なかった。

「でも俺の猫がいるしなあ、、、、」

「、、、、ばあちゃん宅に預けたら?」

長男が自分の猫を手放すはずがないことをわかっていて
話を少しずらす。
新しい職場は交通費があまり出ないらしい。

「様子を見て、しばらくしたら引っ越すしかないねえ、、、」

そういう私に今度は長男が
「、、、、、、」
となったような気配がした。

長男と別々に暮らすようになったとき、
私は深く後悔した。
寂しく心細かった。
次男はまだ一緒だったけど、あてになるような子ではなかった。
もちろん長男もそうだったのだけど
一度に家族が四人から半分になった心細さは
なったものにしかわからないと思う。

「用心」ということだけでも怖かった。
夫も長男も大きく、気が荒いので我が家に侵入しようなんて
人間はいなかったと思う。
実際はいたとしても、返り討ちに遭うだろう、
そんな気分になったものだ。
それが細っこい次男と私では、鍵をかけまわるしか
手がなかった。
それまでは玄関も鍵をかけなかったし
出かけるときも2階の窓の鍵は開いていた。

そんな心細さの中で次男も出て行き
ついに一人になったけど、
人間とはそうしたものなのか、
私はだんだん「おひとりさま」に慣れつつある。

そこに長男の言葉だったから、
私は言葉に窮した。

そして忘れていた昔の悲惨だった我が家の状態と
そのとき自分がとんなことを願っていたかが
急激に脳裏によみがえってきた。

もう二度と、あんな思いをしたくない。
二度とあんなことが起こらないという保障などどこにもない。
ということを。

私は長男に
「二度とあんなことしないでね」
と念を押す勇気がない。

長男はそのことについてどう思うだろうか。
もう二度としない、と思っているのか、
馬鹿にするなと傷つくだろうか、
それとも
また当たり前に同じことをするのか、、、、

私にはわからない。

この間まで私はうんと寂しかった。

ケンカしたり疎ましく思ったり、
そういう相手がいる人がうらやましかった。
ひとりぼっちの自分がかわいそうで惨めだった。

でも私はいつの間にか自分に
「独り」の覚悟が身についていたことを感じた。

たぶん私は変わったのだろう。
十年間とてもつらかった。
生きていたくなかった。
そしてここへ来てからの3年は地獄のようだった。

そんな中でも人間は立ち直っていくのだ。

もう、友人たちとは違う人生。
それを独りで歩いていく、という覚悟が自分にできた
ことを知った。

私はいつも
此処ではないどこか、、
今の自分でない私、、、
いつもそうやって彷徨っている。

でも、それは自分を否定しているから、認めていないから、、
もともとの性分もあるけれど、
これは私の課題だ。

長男はまだ帰らずに隣のリビングで寝ている。



posted by えるか at 23:29| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月09日

to U

遊びにきた次男に「お母さん、水泳でもしたら?」と言われた。
「時々、どうしてるんかなあ、、って思うんや」ともポツリと言った。
次男とは別々に暮らすようになってまだ一年もたっていない。
長男とはもう3年になる。

ついに、息子に心配されてしまった。
心配してくれるようになった息子の成長を有り難く嬉しく
思う。
そして、もちろん、情けなくもなった。
ああ、歳とったんだなあ、、、
憐れに見えてるんかなあ、、
そう思うと、涙がやはりにじむ
(もちろん帰ってからな)

その息子がBankBand(綴りが違うか?)の新しいCDを貸してくれた。
4曲目の『to U』が泣ける。
久々に音楽を聴いて泣いた。
こういうあつい感情は大事だ、失いたくない。
泣けた自分にちょっと安心、そして貸してくれた息子にも感謝。
今日の私はちょっといい人だ。

昨日は友人のご夫婦に焼肉をご馳走になり、カラオケに行った。
いつもこのような楽しい暮らしを送っているわけではない。
初めてかも。
我慢してお酒をのまなかったご主人の運転で家まで
送ってもらい、いたれりつくせりで楽しませてもらった。

家で待っているのが
ボロ猫一匹でも、今日の私はうれしいぞ。
こんな日もあるのだ。

posted by えるか at 00:27| 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする